中山道御嶽宿
写真
御嵩宿本陣前
御嶽宿へ
御嵩宿に入る手前の国道21号線(中山道と合流)の左手に鬼の首塚が祠のなかに 収められている。
伝説によれば鎌倉時代、凶暴で悪業三昧の男が 次月の鬼岩の岩窟に住み着き乱暴狼藉を極め住民を大いに大いに悩ませた。 住民はこれを「関の太郎」とか「鬼の太郎」と呼び怖れていた。
住民は、京にいるこの地の地頭交告源吾盛康に退治を誓願し、家臣四人を 派遣したがうまくいかず、蟹薬師に祈願すると太郎が女装し祭礼に来ると のお告げがあった。そのお告げとおり四月一日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、 捕らえて首を切った。四人の者は太郎の首を首桶に入れ、都へ運ぼうと するが重くて運べない、そのうち首桶の縄が切れ首は地面に落ちて どうにも動かない、しかたなくこの地に埋め、それが鬼の首塚と呼ばれるように なったという。
鬼の首塚から国道21号線を行き、北側の御嵩小学校の裏手にある愚渓寺は、 室町時代初期に創建され、江戸時代後期に現在の場所に移築された。 境内の美しい枯山水の”臥竜石庭”は一見の価値がある名園だ。
- 鬼の首塚説明
- 鬼の首塚
- 愚渓寺
- 愚渓寺庭園
御嵩宿中心部
鬼の首塚の先で中山道は国道21号線と分岐、右に曲がり御嵩宿へと入る。 名鉄御嵩口の駅舎を左に曲がり600m程進みまた右に曲がと、左手に願興寺が見える。
可児大寺とか蟹薬師と呼ばれている願興寺は、弘仁六年(815)、天台宗開祖の 伝教大師最澄が、この地で布教の折に自ら刻んだ 薬師如来像を布施屋に安置した のが始まりと言われる。蟹薬師の名の由来は近くの尼ヶ池から一寸八分(5.5cm)の 金色の薬師如来が 無数の蟹の背に乗って現れたという言い伝えによる。 その薬師如来像は御本尊の胎内に納められているらしい。
織田信長は、このあたりで武田信玄と戦火を交えた。 現在の本堂は、信玄の手勢による兵火で炎上したのちに再興されたものである。 また、二十四体もの国指定重要文化財の仏像が残されているという。
願興寺の山門前から約300mほどが御嵩宿の中心部。 御嵩宿は、人口 600、家数 66、本陣 1、脇本陣 1、旅籠 28の規模の宿場。 古くから願興寺の門前町として繁栄した。
脇本陣跡には図書館と郷土館の複合施設、中山道御嵩館が建てられている。 郷土館では御嵩町の歴史が展示されている。中山道御嵩館の西隣にある本陣は 御嶽宿の中心地こあり野呂家が勤めていた。当時の面影を残した 立派な門や、貴重な古文書などが残されている。
そのまた西隣りにあるのが商家竹屋。主屋は明治10年(1877)頃の建築と推定され、 街道を人や物資が往来し、大きく賑わいをみせていた頃からの豪商として、 宿場内での役割を果たしてきた。
- 願興寺本堂
- 願興寺
- 願興寺本堂
- 中山道みたけ館
- 中山道みたけ館展示
- 安藤広重「木曽街道六十九次 御嶽」
- 御嶽宿図
- 御嶽宿模型
- 隠れキリシタン展示
- 亜炭鉱採掘の展示
- 亜炭鉱採掘の様子
- 本陣付近
- 本陣に指定されていた野呂家。立派な門や、貴重な古文書などが残されている
- 商家竹屋付近
- 商家竹屋
- 商家竹屋
- 商家竹屋内部
- 商家竹屋内部
- 商家竹屋内部
- 商家竹屋中庭
御嵩宿から西洞へ
御嵩宿の中心部を離れ、上町の用心井戸を過ぎふたたび国道21号線と合流する 付近に栢森の一里塚があり、「左 細久手宿 右 御嶽宿」と刻まれた御嶽宿東道道標 が立っている。ここから600mほど国道21号線を行き、左手に曲がり井尻から 西洞へと坂道を上る。
- 御嵩城(本陣山城)説明
- 御嵩城跡
- 御嶽宿全景
- 上町の用心井戸
- 上町の用心井戸
- 御嶽宿東道道標
西洞~謡坂の一里塚
坂の途中にある西洞の耳神社は、全国的にも珍しい耳の病気にご利益があるといわれる。 平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本かりて耳に当て、病気が全快したら その人の年の数だけ錐を供えするという。また元治元年(1864)武田耕雲斎が尊皇攘夷を掲げ 水戸天狗党を率いて中山道を来たとき、耳神社ののぼりを敵の布陣と思い、刀を抜いて 通ったと伝えられている。
耳神社から400mほど上ると謡坂に入る。 謡坂には、仏教の墓石である五輪塔が古くから多数ある。 昭和五十六年(1981)三月、道路工事による五輪塔の移転が行われた際に、 その下の地中から数点の十字架を彫った自然石が発見され、ここが 仏教の墓地を利用したキリシタンの遺跡であったことが判明した。 その一部は、中山道御嵩館に展示されている。
謡坂の石畳入口付近の民家の庭にあるキリシタン信仰水神碑をみて、石畳を上る。 謡坂の石畳をのぼりきった所が、安藤広重が、「木曽街道六十九次 御嶽」を 描いた場所で、絵にも描かれている茶店のモデルとなった古い民家が建っている。
このあたりに立場があり、十本の松の大木があったことから十本木立場とよばれた。 水洗い場も残っている。 そこから間もない所に謡坂の一里塚跡が地元の有志によって再現されている。
- 西洞の耳神社説明
- 西洞の耳神社
- 西洞の耳神社
- 謡坂の石畳入口
- キリシタン信仰水神碑説明
- キリシタン信仰水神碑
- 七御前マリアの里解説
- 七御前マリアの里
- 謡坂の石畳終点
- 安藤広重「木曽街道六十九次 御嶽」 モデルの地解説
- モデルの地
- 謡坂の一里塚跡
一呑み清水~津坂へ
一里塚跡から坂を下ると一呑み清水がある。 皇女和宮が降嫁される際に野点に使われた清水で、 岐阜県の名水にも選ばれている。
一呑み清水から400mほど行くと嘉永七年(1854)、千村源征重臣が建立 したという唄清水がある。 「馬子唄の響きに浪立つ清水かな 五歩」の碑があり唄清水と呼ばれている。
そこから300m程先の左手の丘の上に、文久元年(1861)、皇女和宮の四~五千人の大行列が 徳川家茂に嫁ぐため中山道を通った際、一行が休憩するために造営された御殿があった。 御殿場と呼ばれている。
この近辺は、物見峠といい,道路の両側に計5軒の茶屋があり、往来の馬の のどの渇きをいやす馬の水のみ場があった。
ここから坂を下る。途中津橋の馬頭観音を 見て坂を下りきると県道と交差する。左に折れ県道方向を進むと熊野神社の鳥居が 見える。急階段を上り、本殿まであがると境内に熊野神社の回り舞台がある。 舞台の下に入り、その構造を見ることができる。 ここから山中を鴨之巣の一里塚に向けて進む。
- 一呑み清水
- 唄清水解説
- 唄清水
- 御殿場解説
- 御殿場
- 馬の水のみ場
- 熊野神社回り舞台
- 熊野神社回り舞台
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